一服の茶から、一冊の本へ【上・下】(2026年9月3日・4日掲載)
50歳、4児の子育てをしている父親です。
今年4月、長興寺で行われた「白隠の里茶会」がすべて終わったあと、煎茶席を担当された田村弘佳先生が、スタッフの労をねぎらって一服のお茶を淹れてくださいました。
使われていたのは、「佐賀の恵み 高遊外売茶翁茶」。
煎茶の祖と称される売茶翁の名を冠したお茶です。
売茶翁は一六七五年、佐賀に生まれました。
黄檗宗の僧として月海と名乗り、六十歳を過ぎてから京都で茶を売り始めた人です。
茶道具を担いで名勝へ出かけ、身分や懐具合にかかわらず人々に茶をすすめました。
その周りには伊藤若冲や池大雅をはじめ、多くの文人や画家が集いました。
そのお茶をいただいていると、長興寺の松下宗柏住職が言いました。
「原の帯笑園に、売茶翁が来たことがあるという話を聞いたことがある。
飯田君、調べてレポートするように」
そう言って住職は、お茶の包装紙を私にくださいました。
住職らしい、突然の宿題です。
調べ始めてみると、売茶翁本人が原の植松家、のちの帯笑園を訪れたことを示す確かな記録には、今のところ行き当たりませんでした。
しかし、まったく縁のない話とも思えませんでした。
売茶翁は、原に生まれた白隠禅師、そして後に白隠禅師の法を継いだ斯経慧梁禅師と同じ時代を生きています。
京都・妙心寺の僧であった斯経慧梁禅師は、白隠禅師に教えを請うため原を訪れた際、植松家に滞在していたと伝えられています。
その縁を通して、植松家と京都の僧侶や文人たちとの交流も広がっていったようです。
また植松家には、若冲、大雅、円山応挙ら、江戸中期の京都画壇を代表する画家たちの書画が伝わり、植松家の当主は応挙に絵を学んでいます。
売茶翁と植松家を直接結ぶ記録はありません。
それでも、同じ時代を生きた禅僧や文人、画家たちの交流をたどっていくと、その輪のどこかで両者が接していたのではないか。
売茶翁が原の植松家で一服の茶を喫したこともあったのではないか。
そんな想像が膨らみました。
けれども、調べても調べても、それを裏付ける一行は見つかりませんでした。
そのとき、私の頭の片隅をよぎったのが、三年前に亡くなられた植松家前当主、植松靖博さんのことでした。
靖博さんは私を帯笑園保存会へ誘い、植物だけでなく、そこに残された文化にも目を向けることを教えてくださいました。
植松家の古文書から、長唄「松の翁」「駿河土産」と帯笑園との関係を見いだしたのも靖博さんです。
靖博さんが亡くなられたあと、ご自宅へお別れに伺った私に、奥様の須賀子さんが教えてくださいました。
「主人は次に、植松家伝来のお茶の作法を披露したいと言っていましたよ」
その言葉は、ずっと胸に残っていました。
偶然にも、私が長興寺の松下住職に勧められ、表千家の土井宗達先生のもとで茶の稽古を始めたのも、靖博さんが亡くなられたのと、ほぼ同じ頃でした。
植松家では煎茶を嗜まれていたと聞いていました。
売茶翁の足跡を調べるうちに、靖博さんがやり残した仕事が、再び私の前に姿を現したように感じました。
このまま想像だけで終わらせたくはありません。
私は思い切って、植松家の玄関を叩きました。
須賀子さんに事情をお話しすると、植松家の古文書が沼津市歴史民俗資料館に保管されていることを教えてくださり、鈴木裕篤さんへとつないでくださいました。
資料館で植松家資料の目録を一つずつ追っていると、ある一行が目に留まりました。
「茶道の作法書の写し」
実物を見せていただくと、そこには茶事の時刻や手順、露地の整え方、客の進み方、棚や道具の置き合わせ、さらには道具の細かな寸法まで、図と文字でびっしりと記されていました。
全部で一〇八丁ありました。
これが、靖博さんのおっしゃっていた、植松家伝来の茶の作法なのではないか。
松下住職から手渡された宿題は、いつの間にか、靖博さんが残したもう一つの宿題へとつながっていました。
一〇八丁の古文書を、何とか読み解いてみたい。
そう思い、まずは全文を自分なりに翻刻することから始めました。
私は茶道史や古文書の専門家ではありません。
暇を見つけてはAIに助けてもらい、くずし字の候補を探しながら翻刻と現代語訳を進めました。
関係する本を取り寄せ、インターネット上の資料も参照しながら文意を考えました。
それでも、最後までどうしても読めない文字が残りました。
全文を自分なりに仕上げたところで、鈴木裕篤さんに読み合わせをお願いしました。
鈴木さんは、私一人では判読できなかった文字を一つひとつ教えてくださり、ようやく現代語訳と解説を仕上げることができました。
原本に正式な書名はありません。
私はこの古文書に、「帯笑園 植松家伝 茶之湯手鑑」という仮の名を付けました。
一〇八丁と向き合い続けるには、私自身にも、呼びかけるための名前が必要でした。
読み進めるうちに、これは単なる点前の教本ではないと思うようになりました。
正午、朝、夜咄、暁、食後、不意の来客を迎える茶事まで記されています。
客が来る前に、どこを掃き、戸をどう扱い、灯火をどこへ置くのか。
亭主はいつ姿を見せ、いつ姿を消すのか。
茶を点てる技術以上に、「人をどう迎えるか」が細やかに書かれているのです。
なかでも心に残ったのは、次の一文でした。
「客がいつ来ても見苦しからぬ様の為」
まだ姿を見せていない客を思い、その人のためにあらかじめ場を整えておく。
この短い言葉に、一〇八丁を貫く精神が表れているように思いました。
また、第四十三丁には、炉の逆勝手は本勝手の置き合わせを左右反対にしたものなので、詳しい説明を省くという一文だけが、一丁を使って記されています。
帯笑園にはかつて、富士を望む「望嶽亭」という茶室がありました。
正確な図面や間取りは残っていません。
しかし、植松家に伝わる絵図面を見ると、四畳半ほどの座敷であったことがうかがえます。
正客がお茶をいただきながら富士山を望める位置や、庭に残る沓脱石の配置などを重ねて考えると、望嶽亭は逆勝手の茶室だったのではないかと想像しました。
もちろん、現段階では推測にすぎません。
それでも、古文書の第四十三丁と、失われた望嶽亭の姿が、「逆勝手」という一点で重なって見えたのです。
書き込みには不揃いなところも、判断に迷うところもあります。
しかし、現代の知識に合わせて直してしまえば、誰かが聞き、図に描き、覚えようとした「学びの痕跡」まで消えてしまいます。
分からないものは、分からないものとして残す。
それも古い書物に向き合う礼儀だと考えました。
茶の稽古を始めて三年。まだ入口にすぎません。
それでも、稽古で土井先生から教わったことと古文書の文字が重なった瞬間、紙の上の記述が、ふっと具体的な風景として見えてくることがありました。
また、この三年は、AIが大きく進化した三年でもありました。
もし三年前の私がこの書物を見ても、茶の知識もAIの助けもなく、ここまで内容は入ってこなかったでしょう。
人には、その書物と出会う時があるのかもしれません。
こうして全二百二十一頁の解説集を一冊にまとめ、靖博さんの仏前に供えました。
「靖博さん、できましたよ」
そう報告できたことに、今は静かな安堵を覚えています。
この一冊を作りながら、茶之湯は書物だけでなく、人から人へ伝えられてきたものなのだと感じました。
そして、もう一人思い出すのが、昨年末に亡くなられた表千家教授の森田宗雅先生です。
昨年まで沼津市芸術祭茶会の実行委員長を務められていました。
以前、私が「お茶は覚えることがいっぱいで……」とこぼしたことがあります。
すると先生は、笑ってこうおっしゃいました。
「お茶は、軸に花に、道具に作法。いろいろなものを一通り学べるからいいのよ。
十年、二十年学ぶ道ですから、焦らずに」
ちょうどその頃、茶の湯の心得として伝わる、「万事に、物の嗜み、ならびに気遣い」という言葉を読んだばかりでした。
何事も一通り嗜んでこそ、相手の立場や苦労を想像できる。
先生の言葉が、すとんと胸に落ちました。
森田先生がお一人暮らしのなか、不慮の事故で亡くなられたと聞き、せめてお別れをしたいとご自宅へ伺いました。
三人の娘さんはそれぞれ遠方で暮らしており、その日応対してくださったお孫さんは神職に就かれていました。
お孫さんは装束に着替えて私を待っていてくださり、「せっかくですから、告別祭をもう一度いたしましょう」と、私一人のために、お祓いをし、祭詞を読み、玉串を捧げる場を整えてくださいました。
祭詞には、生まれ育った土地ではない沼津で、多くの方と出会い、喜びを分かち合った先生の生涯が綴られていました。
多くの方に慕われた人生だったことが伝わってきました。
お孫さんの心遣いもまた、先生が大切にされたものの続きだったのかもしれません。
今回作った『帯笑園 植松家伝 茶之湯手鑑 解説集』は、帯笑園と弊社トップ・ワークスに、少し余分に刷ったものを置かせていただきます。
帯笑園や茶之湯に興味のある方に、無償で差し上げます。
よろしければ、ぜひ手に取ってください。
そして今年も10月4日(日)、沼津御用邸記念公園東附属邸で「第53回沼津市芸術祭茶会」が開かれます。
私もご縁をいただき、今年から実行委員の一人として準備を進めています。
抹茶席と煎茶席を巡る茶会で、初めての方にもお楽しみいただけます。
茶券のお問い合わせは、長興寺(966―0125)までお願いいたします。
一服のお茶が一冊の本になり、その本が、また次の一服へとつながってゆく。
売茶翁から白隠禅師や斯経慧梁禅師の時代へ。
京都の文人たちから植松家へ。
そして植松家から、今を生きる私たちへ。
すべてが一本の線でつながってはいません。
それでも文化は、人との出会いのなかで、思いがけない形を取りながら受け継がれていくのかもしれません。
ご縁とは、きっとそのようにして、人から人へ手渡されてゆくものなのだと思います。
この秋、そのご縁の先で、皆様をお迎えできたら嬉しく思います。
文・写真=飯田理一朗(株式会社トップ・ワークス)




