「待つ」という作法(2024年12月24日掲載)
48歳、4児の子育てをしている父親です。
常日頃子供達には、変化の激しい世の中においても、その変化を楽しむように「待つ」ことの意義を感じてほしいと思っています。
現代社会は、待たなくてよい社会になり、待つことができない社会になりました。
ほぼすべての人が携帯電話を持ち、24時間いつでも誰かと繋がれ、スマホの画面から新しい情報はどんどん飛び込んできます。
新しい技術や商品は日々生まれ、日常生活もめまぐるしく変化します。
今年一年、何かに追われるように生活をしていた中で、私を支えてくれていたのは、週に2時間のお茶の稽古でした。
お茶の稽古では、様々な場面で待つ時間を持ちます。
例えば湯返しの所作では、柄杓でお湯をすくい注ぎ、雫が完全に落ちるのを待つ。
最後の一滴が落ちた音で、所作の終わりを知ります。
この「待つ」時間が、私にとって自然の流れに身を委ねる感覚を呼び戻してくれるように感じます。
時間の感じ方には、2種類あると思います。
1つは、一つ一つを積み重ねるように、今から未来へ時を進めていくような時間の感覚で、もう1つは、あらかじめ未来へ区切った時点へ向けて、一つ一つの時を消すような時間の感覚です。
前者の時間の感じ方は、とても能動的で前のめりですので、偶然性を排除してしまいがちです。
一方、後者の時間感覚では偶然性や自然な流れが含まれます。
待つことは、この後者の時間感覚の中で行われる行為ではないか考えます。
前者の時間感覚を多く持つ人の「待つ」という行為は、結果を迎えに行っているように私は感じます。
人の話を聞くことも広い意味で「待つ」行為の一形態です。
この視点からテレビの討論番組を見てみると、多くの人が自分の意図する結果を迎えに行くような話し方をしていることに気づきます。
他者の話を途中で遮り、自分の結論に向かわせようとする人。
目的の結果が得られると、それ以上話を聞くことをやめてしまう人。
確かに時間は有限ですが、人の話をじっくり聞き、偶然の中にある価値を見出すことも重要だと感じます。
今年、日本人の平均年齢が50歳になりました。
つい80年前、戦前までの日本人の平均寿命が50歳以下だったことを考えると、1世紀も経たないわずかな時間で大きな社会変化が起きたことに驚かされます。
このような豊かな老いの時代だからこそ、認知症についても真剣に向き合うべきだと感じています。
小澤勲著『認知症とは何か』という本に、自分に起こった不具合を何とかしようとする人ほど、認知症の妄想や徘徊といった周辺症状を招き寄せることが多いと書かれていました。
これは、対処しにくい状況を克服しようとする人間らしい努力の表れであり、むしろ愛おしく感じます。
問題なのは、そうした症状の中で、本人が自分なりの理屈で世界を守ろうとすることにより、周囲との整合性が失われることではないでしょうか。
老いていく時間の過ごし方も2種類あるように感じています。
1つは、これまでの自分を保ちながら自分の世界を守り続ける過ごし方。
この場合は周囲の人達が手を出しても解決になりませんので、本人がみずからを保てなくなるまで待つしかありません。
もう1つは、一つ一つ数えるように、老いていく時間を待つような過ごし方です。私自身も髪が薄くなり、老眼が進み、確実に老いへと向かっています。
ポジティブとは言いがたい状況ですが、それを不安なく表現できる環境があり、周囲に不安を受け止めてくれる人々がいることで、安心して老いを受け入れることができると感じています。
落語界にはこんな逸話があります。ある高齢の落語家が寄席の楽屋で排泄してしまった際、周囲が騒ぐ中で彼はこう言いました。
「良い糞が出ないと、良い野菜はできないよ。」
その一言で場を笑わせたのです。
このエピソードには、認知症の自分をも笑いに変え、周囲との関係を和らげる力が感じられます。
その後の楽屋の状況を想像してもネガティブさを感じないのは私だけでしょうか。
社会が老いを受け入れる環境づくりも大切です。
お互いに老いを受け入れ合い、様々な場面の整合性を一人で抱え込むのではなく、みんなで支え合っていく。
それぞれが丁寧なお付き合いをして行く。
そんな社会では、「待つ」という作法がますます重要になるように私は感じます。
変化の激しい現代社会です。
期待や焦り、時には無力感を感じる状況においても、子どもたちには「待つ」ことの美しさと意義を感じて生きて行ってほしいと願っています。


