ぎゅっと小さく、美しく(2026年3月3日掲載)

49歳、4児の子育てをしている父親です。


先日、「大人の、きほん」というトークイベントに足を運びました。

登壇されたのは作家の吉本ばななさんと、写真家・映画監督の若木信吾さん。

華やかな肩書きとは裏腹に、語られていたのは「小ささ」についての話だったように思います。


吉本さんは7歳の頃から土肥に通っているそうです。

山と海と川が当たり前のようにある風景。

頑張らなくても、穏やかな自然の輪郭を知ることができる場所。

都市の刺激とは違う、余白のある時間が、いまもなお吉本さんの感性を支えているのだと感じました。

余白とは、何もないことではなく、意味が決まりきっていない状態のことなのかもしれません。

整えられすぎていないからこそ、人はそこに自分を重ねることができるのでしょう。


話はイタリアの食文化にも及びました。

「システムが味を超える」という言葉が印象に残っています。

コース料理で一皿一皿を味わい尽くすというよりも、アンティパストとワインで軽やかに楽しみ、さっと解散する。

いわばバル形式のような食事のあり方が良いと吉本さんは言います。

そこでは一品一品の完成度を競うというよりも、その場の空気や会話が重んじられているように感じました。


食事は何を食べるかよりも、誰と食べるかが大事なのかもしれません。

料理の質を極める方向ではなく、関係性を深める方向に価値が置かれる。

その軽やかな仕組みが、吉本さんの感性にはまっているように思えました。


一方で若木さんは、写真がうまくなるほど模倣に近づく、と語りました。

撮りたいイメージに没入するほど、構図も光も、どこかで見たことのある「正解」に近づいていく。

うまくなればなるほど整っていく。

しかし、他人に選んでもらった写真は、自分が良いと思っていたものとはまるで違った。

そこにこそ、自分らしさが潜んでいたと言います。


私たちはなぜ普遍に寄るのか。

それは安心だからでしょう。

理解されやすく、否定されにくい。

共有された「正解」は摩擦を生まない。

しかし、その安心の中に居続けると、自分は少しずつ薄まる。

薄まるとは、摩擦がなくなることです。

摩擦がないところには、手触りも残らない。


文章でも写真でも、私たちはまず「型」に吸い寄せられます。

型を通過しなければ外すこともできない。

そして、その型からほんの少し外れる瞬間に、自分が現れる。

そのずれは意図的に作れるものではなく、むしろ消そうとしなかった結果として残るものではないでしょうか。

整えすぎなかった部分に、その人の輪郭がにじんでくるように思います。


吉本さんが語った、路地にぎゅっと並んだ植木鉢の話を思い出します。

整然と並べられた花壇ではなく、生活の中で少しずつ増えていった鉢。

割れた縁、少し傾いた支柱、あふれた土。

そこには計画ではなく、時間があります。

時間が堆積したものは、小さいけれど濃い。

大きく整えられたものよりも、小さく詰め込まれたもののほうが、確かに存在感があります。


規模が大きくなるほど、均質化は進みます。

整っていくことは悪いことではありません。

しかし、整いきったものは、ときに手触りを失います。

味とは揺れであり、癖であり、少しの違和感のことなのかもしれません。

その違和感に立ち止まれる感性が、創作や仕事を支えるのではないかと思いました。


話題はAIにも及びました。

AIは安定していて、顔色をうかがわなくてよい。

疲れない。

確かにAIは普遍的な答えを整えてくれます。

しかし、その整いの中に摩擦はあるでしょうか。

均整のとれた文章は書けるけれど、削りきらなかった揺れや、言葉にしきれない湿度はどうでしょう。

そこにこそ、人間の役割が残っているように感じます。


ぎゅっと小さく、美しく。


それは感傷というより、ひとつの姿勢なのだと思います。

大きな正解を追いかけるのではなく、小さな違和感を手のひらに残しておくこと。

整えながらも、どこか削りきらない余白を持つこと。

整っていなくてもいい。

説明できなくてもいい。

摩擦を消さず、手触りを残す。


食事でも、写真でも、文章でも。

完成度の高さよりも、そこに流れる時間や関係性を大切にする。

その場で交わされた言葉や、ふとした沈黙のほうが、後から思い出になることもあります。


誰かに選ばれたとき、はじめて気づく自分があります。

その小さな芽を、踏みつぶさないでいられたらと思います。



文・写真=飯田理一朗(株式会社トップ・ワークス)

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