サッカーの型、小学校という型【上・下】(2026年6月20日・21日掲載)
49歳、4児の子育てをしている父親です。
今月、いよいよFIFAワールドカップ2026が開幕します。
近年の日本代表の戦いぶりを見ていると、「今回はもしかしたら」と、自然と期待している自分がいます。
一昔前まで、日本代表は「善戦するチーム」でした。
世界の強豪国相手に時折ジャイアントキリングを起こし、日本中を熱狂させる。そんな存在だったように思います。
しかし最近は少し違います。
ドイツ、スペイン、ブラジル、イングランド。
かつては“雲の上”だった国々に対して、日本代表は、もう単なる勢いではなく、内容を伴って勝負ができるようになってきました。
もちろん、フィジカルの向上もあるのでしょう。
技術は昔から高いと言われていました。
けれども今の日本代表を見ていると、何より感じるのは、「全員が同じ絵を見て連動している」という不思議な一体感です。
誰か一人のスーパースターに頼っている感じがしない。
むしろ、それぞれが主体的に動きながら、全体として美しく噛み合っている。
その背景を知りたくて、最近、元日本代表監督の岡田武史さんのインタビュー動画を見ました。
そして、動画を見終えた後、思わず著書『岡田メソッド』を購入しました。
もともとサッカー観戦は好きでしたが、本を読んでから、試合の見え方が少し変わりました。
「なぜ今そこへ走るのか」「なぜそこに立つのか」「なぜ今は寄らずに距離を取るのか」
ボールを持った選手だけではなく、ボールを持っていない選手たちが、何を考え、どう動いているのか。
その意味が少しずつ見えるようになり、サッカー観戦の“解像度”が一段上がった感覚がありました。
岡田監督は、日本人選手には長年ある特徴があると感じていたそうです。
「言われたことは真面目にやる。けれども、自分で判断できない。」
Jリーグ創設当初、日本へやってきた海外の監督たちは、口をそろえて驚いたそうです。
「なぜ日本の選手は、“ここではどうプレーすればいいですか”と聞くのか。」
サッカーとは、本来、自分で判断するスポーツのはずだ、と。
その言葉を受け、日本サッカー界は、「型にはめてはいけない」「もっと自由にさせよう」という方向へ進んでいきました。
ところが、岡田監督は、その流れの中で、ある違和感を抱き続けていたそうです。
自由を与えても、なぜか本当の意味で主体的な選手になりきれない。
例えば試合中、想定外の事態が起こると、選手たちの目が泳いでしまう。
誰も議論しない。誰も立て直せない。そんな場面を何度も見てきたと言います。
そんな時、岡田監督はスペイン人コーチとの会話で、大きな衝撃を受けます。
「スペインにはサッカーの“型”がある。」
自由奔放に見えるスペインサッカーに、“型”がある。岡田監督は驚いたそうです。
ただし、その型とは、窮屈なマニュアルではありませんでした。
それは「原則」でした。
状況ごとの答えを暗記するのではなく、「どう考え、どう動くべきか」という共通原則を、幼い頃から身体へ落とし込む。
その原則が共有されているからこそ、試合中に自分で判断しながら、全員が迷わず連動できる。
岡田監督は、この気づきから「岡田メソッド」を構築していきました。
その話を聞きながら、私はふと、日本の伝統文化にある「守破離」という言葉を思い出しました。
まずは「守」。型を守る。
次に「破」。型を疑い、崩し、自分なりの工夫を始める。
そして最後に「離」。型から自由になる。
茶道や武道、能、職人の世界にも通じる、日本独特の感覚です。
自由とは、型を壊すことではなく、型を身体に通した先にある。
岡田監督の話は、まさにそれでした。
そんなことを考えていた頃、私は映画『小学校〜それは小さな社会〜』を観に行きました。
この映画には、こんなサブテーマがあります。
「6歳児は世界のどこでも同じようだけれど、12歳になる頃には、日本の子どもは“日本人”になっている。」
とても印象的な言葉でした。
映画の中では、掃除当番、給食当番、学級活動、整列、配膳など、日本人にとってはあまりにも当たり前の風景が映し出されます。
けれども海外では、この作品が大きな反響を呼んでいるそうです。
監督の山崎エマさんは、海外生活を経て、日本の小学校を外から見直した時、「普通にしているだけなのに、日本人はすごいですね、と褒められた」と語っていました。
時間を守る。周囲へ配慮する。困っている人を放っておけない。
それは個人の性格というより、日本の小学校という“小さな社会”の中で、自然と身体へ染み込んでいた感覚だったのではないか、と。
山崎監督は、世界が驚いた日本の学校の特徴として、大きく三つの点を挙げていました。
一つ目は、「学校が勉強だけを教える場所ではない」ということ。
掃除も、給食も、日直も、自分たちで行う。
海外では、掃除は清掃員、給食は専門スタッフが行う国も少なくありません。
しかし日本では、「自分たちのことは自分たちでやる」が、小学校の中に組み込まれています。
二つ目は、「行事を通じて共同体を学ぶ」ということ。
運動会。合唱。修学旅行。
日本の学校では、「みんなで一つのことをやり遂げる」経験が非常に重視されます。
大人になると、玉入れや大縄跳びをする機会はほとんどありません。
けれども、「みんなで困難を乗り越えた」という身体感覚だけは、どこかに残り続けている。
山崎監督は、その経験そのものが大切なのではないか、と語っていました。
そして三つ目。
日本の学校は、「まず個人」ではなく、「まず集団」を学ぶ。
海外では、自分の意見や個性を先に育て、その後で協調を学ぶことが多いそうです。
一方、日本ではまず「みんなの中の自分」を学ぶ。
役割。空気。順番。配慮。
その感覚を、小学校時代に身体へ染み込ませていく。
なるほど、日本代表の一体感も、もしかしたらこういう場所から育っているのかもしれない、と感じました。
もちろん、日本の教育には難しさもあります。
協調性。一体感。社会倫理観。
それらの裏側には、同調圧力や連帯責任も隣り合わせに存在します。
その舵取りは、とても繊細です。
映画の中で特に印象的だったのは、修学旅行の夜の場面でした。
生徒たちが寝静まった後、先生方が集まり、「どうすれば、より良い教育ができるのか」を真剣に話し合っているのです。
その姿は、どこか不器用なほど真面目でした。
そして会議前の廊下で、ジャン先生が何気なく漏らした言葉が、今も心に残っています。
「難しいけどさ、失敗しちゃいけないから失敗させないようにすることと、40歳になっても覚えている罪悪感、どっちがいいのだろうなぁ。」
私は、その言葉に、教育の本質を見た気がしました。
転ばないように。傷つかないように。失敗しないように。
今の社会は、とても丁寧に子どもを守ろうとします。
もちろん、それは優しさです。
けれども、人は失敗を通してしか、本当の意味で「自分で考える力」を持てないのかもしれません。
岡田監督も、『岡田メソッド』の中で、コーチングの難しさについて触れていました。
その中に、「指導者は、常にレンガを積まないといけない」という話があります。
レンガは、ただ真上に積み続ければ、いつか倒れてしまう。
だから時には、横へ積むことも必要になる。
しかし横へ積む仕事は、なかなか評価されない。目立たない。成果にも見えにくい。
けれども、それを丁寧に積める人こそ、本当は立派な指導者なのだ、と。
逆に、レンガを積もうとしない指導者は軽蔑される。
なぜなら、そこには「失敗を恐れて挑戦しない」という姿勢があるからだ、と。
その言葉を読んだ時、私は少し勇気をもらった気がしました。
教育も、子育ても、会社も、地域活動も、すぐに結果が見えるものばかりではありません。
けれども、人を育てるということは、本来、そういう地道な“レンガ積み”の連続なのかもしれません。
また、『岡田メソッド』のチームマネジメントの章には、岡田監督が指導時に引用する「村の祭り酒」という寓話も出てきます。
ある村で、祭り用の酒樽を用意するお金が足りなくなりました。
すると誰かが、「みんなで少しずつ酒を持ち寄ればいい」と提案します。
村人たちは賛成し、それぞれが樽へ酒を注いでいきました。
やがて樽はいっぱいになり、祭り当日、村人たちは盛大に鏡開きを行いました。
全員で喜びを分かち合い、乾杯をしたところ、口にした酒は、水だったそうです。
「自分一人くらい、水でもいいだろう。」
皆が少しずつそう思った結果でした。
この話を聞くたびに、私は小学校の掃除時間を思い出します。
誰かが少しだけサボる。誰かが見て見ぬふりをする。
その積み重ねで、空気は少しずつ崩れていく。
逆に、誰かが自然に動けば、その空気もまた広がっていく。
サッカーも、小学校も、社会も、案外同じなのかもしれません。
誰か一人の才能だけで成立しているわけではない。皆が少しずつ“酒”を持ち寄ることで、成り立っている。
そんな“小さな社会”の積み重ねの先に、今の日本代表の強さがあるのだとしたら。
今年のワールドカップは、少し違った景色に見えそうです。
グループリーグ突破、初のベスト8、そして、その先へ…。
子どもたちと一緒に、躍動する日本代表を応援したいと思っています。
文・写真=飯田理一朗(株式会社トップ・ワークス)



