子猫とリスク(2026年8月5日掲載)
49歳、4児の子育てをしている父親です。
この夏、わが家に2匹の子猫がやってきました。
きっかけは、長興寺の松下住職から、「子どもたちの情操教育にいかがですか」と声をかけていただいたことでした。
認知症の義父にとっても、小さな命が身近にいることは、暮らしのよい刺激になるのではないかと思いました。
とはいえ、「かわいい」という気持ちだけで、生き物を迎えるわけにはいきません。
毎日の食事やトイレの世話、病気になったときのこと、旅行に出かける際のこと。
これから十数年、その命に責任を持つことになります。
子どもたちにも、そのことを話しました。
家族で相談し、最後は子どもたち自身が「飼いたい。自分たちも世話をする」と決めました。
そうして、ルーちゃんとミヤちゃんとの暮らしが始まりました。
猫のことを考えているうちに、ずいぶん前に読んだ寄生生物の本を思い出しました。
生物学者の成田聡子さんが紹介していた「トキソプラズマ」という寄生生物の話です。
トキソプラズマは、多くの哺乳類に寄生しますが、有性生殖ができるのはネコ科の動物の体内だけだそうです。
感染したネズミは、天敵である猫のにおいを恐れなくなり、普段より大胆に行動するようになります。
その結果、猫に捕まりやすくなり、トキソプラズマは目的地である猫の体内へたどり着きます。
さらに興味深いことに、人間の行動との関連を調べた研究もあります。
過去の感染を示す抗体を持つ人は、持たない人に比べて、起業経験を持つ割合が約1.8倍だったというのです。
もちろん、トキソプラズマに感染すれば起業家になるという話ではありませんし、因果関係が証明されたわけでもありません。
それでも、もし人間にも警戒心が薄れ、失敗を恐れにくくなるような変化が起こるとすれば、その大胆さは、事故などの悪い方向に働くこともあれば、未知の世界へ踏み出す力になることもあるのでしょう。
この話から、田中靖浩さんの著書『会計の世界史』を思い出しました。
私たちは普段、「リスク」という言葉を、できる限り避けるべき危険という意味で使っています。
しかし本書では、その言葉の由来として、「リズカーレ」と呼ばれた勇敢な船乗りたちが紹介されています。
海賊や嵐、岩礁などの危険を承知で、東方貿易へ乗り出した人々です。
彼らは、危険を顧みない無謀な者ではありません。
危険の先にある可能性を信じ、未知の海へこぎ出した挑戦者として、むしろ賞賛される存在でした。
彼らを指した「リズカーレ」は、やがて「勇気ある者」の意味で用いられ、さらに転じて現在の「リスク」になったと本書は紹介しています。
厳密な語源については諸説あるようですが、現代の私たちが忘れかけている「リスク」の一面を、鮮やかに表しています。
彼らが海を越えて持ち帰ったのは、香辛料や絹ばかりではありません。
異なる文明が育んだ知識や技術も、ヨーロッパへと運ばれました。
その一つが、インドで生まれ、アラビア世界を経て伝わった「ゼロ」を含むアラビア数字です。
ローマ数字では難しかった複雑な計算が容易になり、商人たちは航海にかかる費用や利益を計算し、貸し借りを記録するようになりました。
やがて複式簿記や金融が発達し、数字は過去を記録するだけでなく、まだ見ぬ未来を予測する道具にもなっていきます。
こうした変化は、ルネサンスの新しいものの見方とも重なり、数学や天文学、物理学をはじめとする近代科学の発展を支える土台の一つとなりました。
危険を承知で海へ出た人々が、品物とともに新しい数字や考え方を運び、それが後の世界を大きく変えたのです。
現代社会では、リスクは悪いものであり、できる限り小さくすべきだという考え方が強くなっています。
事故を防ぎ、損失を抑えるリスクマネジメントは、もちろん必要です。
しかし、リスクを管理することばかりに心を奪われれば、いつしかリスクを負わないこと自体が目的になってしまいます。
失敗する可能性のあることには手を出さず、責任を問われそうなことからは距離を置く。
何も起こらないことを最善とする社会は、安全である一方で、新しい経験や発見までも遠ざけてしまいます。
そもそもリスクマネジメントは、挑戦をやめるためのものではなく、失敗しても立ち直り、挑戦を続けられるようにするためのものです。
危険が見えていないのは無謀です。
しかし、危険が見えるからといって一歩も動かないのは萎縮です。
危険を知り、備えられることには備え、それでも未知の世界へ踏み出す。
そこに人間の勇気があるのではないでしょうか。
子猫を迎えることにも、負担や心配はあります。
しかし、それらをすべて避けようとすれば、子どもたちが命に触れ、世話をし、思いどおりにならない相手と暮らす経験も得られません。
別れの悲しみまで考えれば、初めから飼わない方が安全なのかもしれません。
それでも私たちは、2匹を家族として迎えることを選びました。
子どもたちには、何も恐れない人ではなく、恐れるべきものを知ったうえで、それでも勇気をもって一歩を踏み出せる人になってほしいと思っています。
転ばないことだけを考えるのではなく、転んでも立ち上がれると信じること。
わが家にやってきた2匹の小さな命が、優しさや責任とともに、「勇気をもってこぎ出す」ことの大切さも、子どもたちに教えてくれたらと思います。
文・写真=飯田理一朗(株式会社トップ・ワークス)


